模倣と実用性
―ミッションによる女子高等教育とモダンガール―

小檜山ルイ(東京女子大学)

 アジアにおいて、プロテスタント・キリスト教(特にアメリカ系)の女性の宣教師による教育事業は、「近代的」、「西洋的な」新しい女性像を提示する空間を最も早い時期から提供してきた。では、1920年代に現れたとされるモダンガールは、ミッションの女子教育空間とどのような関わりがあるのだろうか。本報告は、1918年にアメリカ‐カナダ系のミッションが超教派で設立した東京女子大学を事例として、この問題を考察する。

 従来、日本のモダンガールの研究は、雑誌等における議論や小説、ポスター、写真、映画等に現れた女性像を使っての、言説や表象の分析を主に進めてきた。それらは、モダンガールを中流階級の現象とする一方で、カフェの女給等の、中流階級に属さない女性たちをもモダンガールの中心的担い手として描き出す。モダンガールより10年ほど前に現れた「新しい女」が、高等教育を受けた少数のエリート女性たちと確固として結びついているのとは大いに異なる。モダンガールの階級的所在は極めて曖昧なのである。モダンガール以前の新しい女性像創出において、常にそれにかかる重要な因子であった、三点セット――教育、階級、西洋の影響――を、モダンガールの分析に導入することで、この曖昧性が何に起因するのかを多少なりとも明らかにできるであろう。

 本論においては、モダンガールの印を洋服の着用と断髪と規定し、まずインテリ中流階級の女性のターゲットとしていた『婦人之友』において、洋服着用のキャンペーンがいかに展開され、この階層の女性に洋服および断髪が浸透していったかを分析する。次に東京女子大学在校生学内紙、同窓会誌、卒業生の自叙伝等を用いて、女子大学在校生、卒業生の中でどのような人がこの印の着用を選択したかを分析する。この作業を通じ、高等教育を受けたモダンガールとは、海外留学経験と職業を持ち、実用性にのっとって洋服と断髪を採択した人であることを明らかにする。ではこのような極めつけのエリートであるモダンガールと、カフェの女給に代表されるモダンガールとは、どのような関係にあるのか。本論では、上にあげた史資料の言説をさらに分析することで、この問題の解明を試みる。

 上海におけるモダンガール(新女性)の代表的タイプの一つとして、東京女子大学と同じ超教派のミッション・プロジェクトの一環として設立された金陵女子大学の学生、卒業生がいたことは広く知られている。東京女子大学におけるモダンガールの研究は、将来、こうした事例との比較を行うための 基礎的材料を提供することになるであろう。