普遍性の幻想?
―ワイマール期、及びナチス・ドイツにおける〈ノイエ・フラウエン〉と「他者」―

ウタ・ポイガー(ワシントン大学)

1920年代、ドイツの広告や大衆誌、映画、小説、社会評論に登場するモダンガール(Neue Frauen)は、しばしば「非ドイツ」女性のイメージとの関係で描かれた。その中には、たとえば、当時、近代的であるとみなされたアメリカの白人女性やフランスのギャルソンヌ、あるいは日本のモガといった同時代のイメージも含まれるし、「原始的」とされる他者との遭遇というセッティングでの「近代的」女性――たいていアメリカやヨーロッパの――のイメージもあった。ドイツの芸術家や広告業者も、近代女性の、そして近代女性のための、卓越し購入可能でコスモポリタンな美意識を産み出すことに関与した。この国際的な美意識には、顔かたちの「アジア化」と女性身体の細身指向が含まれていた。ドイツにおいては、こうした感性が広告における女性のイメージにおいて顕著となるにしたがって、逆に、オリエンタリズムの比喩や、黒人や中国人に対するあからさまに侮辱的な表現が姿を消した。同時に広告――とくに化粧品広告――は、いかにその商品が世界各国、各都市で支持されているかを強調することで、女性消費者に訴えようとした。1929年には、「広告――世界の幸福への鍵――」のスローガンのもと、ベルリンで国際会議が開かれ、世界各地の広告業者が一堂に会した。さらに1930年、ドイツの女性誌『婦人(Die Dame)』に執筆するファッション・コラムニストは、「民族的特徴は国際的なスタイルに取って代わられた」と述べるまでになった(Die Dame、1930年26号)。ナチスはモダンガール、コスモポリタニズム、そしてユダヤ人女性の間に、しばしば人種的関連性を喧伝した。にもかかわらず、〈ノイエ・フラウエン〉と結びつけられた美意識に富んだスタイルは、1930年代を通じて容易に衰退することはなかった。

本報告では、1920年代から1930年代初頭のドイツの写真・イラスト雑誌、マーケティング戦略、社会評論を取り上げ、ドイツにおける〈ノイエ・フラウエン〉やモダンガールの構築過程における普遍性幻想の表出について考察していく。普遍性へのさまざまな希求に巣喰う限界と矛盾、また、その近代化をめぐる語りとの関係を検討していく。その過程で、第一次世界大戦後の混乱と強制された植民地解放の文脈で、さまざまなドイツ人グループが手放そうとしなかった美意識について、そしてそこに関わる民族的差異、セクシュアリティー、社会的ヒエラルキーに関するヴィジョンや国際的局面について検討する。雑誌編集者や広告、社会評論は、ドイツの内外で、なにが女性を近代的で、魅力的で、かつ/あるいは、脅威的たらしめているのかを幾度となく論じ、暗黙のうちであれ明示的であれ、ドイツ女性を非ドイツ女性と比較した。本報告の結論部では、1933年以降の国家社会主義体制下で、モダンガールのイメージがどのように変化し、変化しなかったかを明らかにする。