帝国の周辺から見た〈モダンガール〉という問題
―沖縄の植民地的近代と女の移動―

伊藤るり(お茶の水女子大学)

 1920年代から30年代にかけて、沖縄県最大の都市、那覇は人口わずか6万人台で推移した(同じころ、東京の人口は200万人を優に超えていた)。1910年代後半になると、路面電車や自動車が見られるようになり、パナマ帽製造など新しい産業の勃興による活気も見られるようになった。だが、この那覇という例外的空間を除けば、沖縄は全体として貧しい農漁村からなる島嶼社会であり、とくに1920年代半ばからは「ソテツ地獄」と呼ばれる経済的な窮乏のもとにあった。

 こうしたなか、1910年代半ばから20年代半ばにかけて、数は少ないとはいえ、沖縄に「新しい女」と呼ばれる一群の女たちが出現したことは注目される。伊波普猷の周辺に現れたこれら「新しい女」――富原初子、玉城オト、伊波冬子、金城芳子、新垣美登子――は、男性知識人の説く同化論とは異なるスタンスで植民地的近代とまみえたように見える。彼女たちのなかには、女学生のころに『青鞜』を通じて女性解放思想に触れた者もいれば、進学や就職口を求めて東京や大阪に出たのち、社会主義運動、あるいはキリスト教団体による社会改革運動に参加した者もいる。

 他方、1920年代には、高等女学校、県立女子師範学校などを中心に新しい女学生文化が形成されたが、「新しい女」たちは、そうした女学生文化の先駆的な存在でもあった。1930年代に入ると、新垣のごとく美容院を開き、都会的センスを那覇に持ち込んで「モダンガール」あるいは「ハイカラさん」と呼ばれる女たちの登場を促した者もいる。

 都市文化の基盤が貧弱な島嶼社会で、どのようにしてこれらの女たちは出現できたのか。

 本報告でとくに注目するのは、移動の問題である。人びとの地理的移動は、学校教育の急速な普及に伴う文化的変容や女たちの職業的進出とも関連する。資本が食指を動かすにはあまり小さい市場であった沖縄で〈モダンガール〉現象が見られたとすれば、それは拡大する帝国のなかで島内外を激しく往還した男女の移動の問題ぬきには説明できないであろう。こうした問題意識に立って、報告では『時代を彩った女たち――近代沖縄女性史――』(外間米子監修、琉球新報社編、1996年)を取り上げ、明治から大正初期に生まれた著名な女性80名のライフ・ストーリーを、おもに移動歴との関連で検討する。