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2005/2/19 第2回COEジェンダー英語圏2004年度大会 第2部 研究発表会



【企画】プロジェクトD英語圏
【タイトル】「セクシュアリティの地平―いま見る・読む・感じる表象批評の冒険」
【日時】2005年2月19日15:45〜18:30(第1部は別に記録)
【場所】お茶の水女子大学理学部3号館7階大講義室
【発表者・題目】
溝口彰子(国立フィルムセンター客員研究員/COE客員研究員)
「ホモフォビックなホモはレズビアンを生むか?―ヤオイのファンタジーと『現実』」
【コメンテーター】石井達郎(慶應義塾大学)
山口菜穂子(お茶の水女子大学大学院博士課程/COE RA) 「トランスアトランティック“ヴァンプ”―アメリカ映画黎明期における性の地政学」
【コメンテーター】斉藤綾子(明治学院大学)
【記録】辻裕美(お茶の水女子大学大学院博士課程)
【司会】竹村和子(お茶の水女子大学)
【備考】使用言語は日本語。出席者137名(学内+学外)


【内容】(敬称略)
  溝口彰子は「ヤオイ」をレズビアン・ジャンルとして、レズビアン・フェミニストの視点から読み直すこと試みた。「ヤオイ」は女が男性キャラクター同士の恋愛を描いた物語を生産し、消費せずにはいられないという現象全体を指す用語として用いられている。広範囲にわたる「ヤオイ」現象の根幹には、「女の読者なのに男同士ものでないと読めない」という「ねじれ」を共通項として見出すことができる。溝口はレズビアン・アイデンティティの構築に、表象としての「ヤオイ」がどのように作用しているかという点について分析を行った。レズビアン・アイデンティティには「社会的記号としてのセクシュアリティ」と「本人にも理解、説明できない無意識を含む精神分析的領域におけるセクシュアリティ」という、二重の言語構築的な側面があり、これらのリアリティとファンタジー両面が切り結ぶ場には、つねに表象が作用している。「ヤオイ」という表象テキストが読み手という主体の実践を変えること、つまりファンタジーが読み手によって身体化される可能性があることが、溝口の聴き取り調査によって示された。

  溝口は広義のヤオイ空間が、レズビアン的な言説空間であるとする理由を三点挙げている。一つにはヤオイ空間は少女性を制度の次元で備えた言説空間である点、二つ目には、女同士でセクシュアル・ファンタジーを交換し合う場となっているという点、三つ目には書き手と読み手がほぼ女性ばかりの空間を形成している点である。

  発表後半で、溝口は広義の「ヤオイ」のなかでも現在進行形の商業出版ジャンルである「ボーイズ・ラブ」漫画および、イラストつき小説の受容に焦点を絞った分析を行った。

  ボーイズ・ラブ漫画の一般的な枠組みにおいては、「受け」と「攻め」の役割を担う二様の男性が登場し、「受け」のアヌスに「攻め」のペニスが挿入される性交渉が行われる。この勃起したペニスは、レズビアン読者にとって、「架空の器官」として受容される。たしかにボーイズ・ラブ漫画は、異性愛の性役割を模倣することを通して、異性愛規範を保持してきたように見えるが、ボーイズ・ラブ漫画の受容が、異性愛規範の刷り込みを相対化してきたことは事実であり、結果としてレズビアン読者が性ファンタジーの次元までもレズビアンになりうる手助けをしたと、溝口自身の経験を例に挙げながら論じた。

  溝口の発表を受けて、コメンテーターの石井達郎は舞踊研究者の立場から、ある表象テキストがダンサーという主体によって身体化される可能性について述べ、ファンタジーの身体化に関する溝口の見解を補強した。また「ヤオイ」分析のセクシュアリティ・ジェンダーから離れた観点、例えば日本の消費そのものを生み出す消費文化や強力なメディアの問題などを、社会文化的・風俗的に考察を進めることを提案した。

  フロアーからは「ヤオイ」の解釈をめぐる女性間の差異や、「ヤオイ」がホモフォビックでありながらも同性愛者のセクシュアリティ構築に寄与している点、レズビアン物との差異などについて、活発な質疑応答が展開された。

  続いて山口菜穂子が、アメリカ映画黎明期における「ヴァンプ」表象を、地政学的・文化的文脈において分析した。「ヴァンパイア」の短縮形である「ヴァンプ」は、「故意に男性を魅惑し食い物にする女」を意味する。「ヴァンプ」女優として一世を風靡したセダ・バラの主演映画である『愚者ありき』(A Fool There Was, 1915) を中心に山口は考察を進めた。『愚者ありき』は世紀転換期の「ヴァンパイア・ブーム」の最中に作られた映画であるが、イギリスからアメリカへと渡って来た「ヴァンパイア」は男から女へ、つまり「ファム・ファタール」の一種である「ヴァンプ」へと作り変えられた。

  フランス経由で渡米したアラブ人女優として造形されたプロフィールを持つセダ・バラが「ヴァンプ」を演じたことは、移民にまつわる「人種」と、白人奴隷に代表される「売春」という、20世紀初頭のアメリカの国内問題を反映している。裕福な白人男性の人生と理想の家庭像を破壊するエキゾチックな「ヴァンプ」は、中産階級に属する白人男性のゼノフォビア(外国人恐怖症)とミソジニー(女性恐怖)の形象であり、国家・家庭に対する人種的・性的な「脅威」を体現している。

  山口は「ヴァンプ」の他者性に着目し、その政治的撹乱性を二点指摘した。一つには「ヴァンプ」が女の過剰な性を「脅威」から「魅力」へと作り変えることで、性規範を破壊している点、二つ目にはイギリス―アメリカ間の関係修復の特命を帯びたジョン・スカイラーが、「ヴァンプ」によって破滅に追い込まれ、結果として「ヴァンプ」の誘惑がアングロサクソン系白人のホモソーシャル同盟を破壊しているという点である。

  20世紀初頭にオリエント=パリ=アメリカという文化的ルートに流布していた「性的なオリエンタル女性」という他者表象を濫用することで、「ヴァンプ」は撹乱的な性的力を獲得していた。大西洋を横断する文化流通を背景として、「ヴァンプ」がアメリカの性規範や白人男性中心の映画表象を、その黎明期において撹乱する可能性があったと山口は結論づける。更に以上のような他者表象としての「ヴァンプ」への視点が、グローバルな人種的ステレオタイプの生成とその流通の問題への考察に発展しうることを指摘して、山口の発表は終わった。

  コメンテーターの斉藤綾子は、「ヴァンプ」の持つエキゾチシズムや性的イメージの系譜に触れ、大西洋からアメリカへ渡って来た映画自身が、ヴァンパイア的なメディアであったと述べた。映画の新たな製作技法が出現し始めた時代に、プリミティヴな表象から「ヴァンパイア」が出てきた点や、「ヴァンパイア」がジェンダーを越境する存在であるという点、また地政学的な移動性という見地からも越境の表象である点について言及し、山口の議論を補強した。また、1910年代の女性監督による女性表象と「ヴァンプ」の比較や、内なる他者としてのユダヤ系の問題について考察を進めることを提案した。

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