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2005/03/19 第3回文献討論会「Judith Butler, Bodies That Matter: On
the Discursive Limits of "Sex"
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【企画】プロジェクトD英語圏「英語圏ジェンダー理論/表象」研究会
【タイトル】Judith Butler, Bodies That Matter: On the Discursive Limits of
"Sex"
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【司会・報告】竹村和子(お茶の水女子大学)
【報告者】(報告順・敬称略)
 吉川純子(武蔵大学・COE客員研究員)
 清水晶子(中央大学)
 越智博美(一橋大学・COE客員研究員)
 松尾江津子(お茶の水女子大学・博士課程後期)
 加藤貴之(清和大学)
 高橋愛(お茶の水女子大学・博士課程後期)
 大池真知子(広島大学)
【記録】大池真知子・井川ちとせ
【日時】2004年3月19日14:00〜18:30
【場所】人間文化研究科棟6階大会議室
【備考】使用言語は日本語、出席者58名(学内+学外)
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【内容】
 「セクシュアリティ」をテーマとする2004年度文献討論会の最終回(3回目)に本書を選択した理由を、冒頭で司会の竹村和子(英語圏リーダー)が以 下のように述べた。(1)セクシュアリティ研究をリードするジュディス・バトラーが、『GT』後初めて本書を発表し、身体性に焦点化したこと(2)唯名論に横滑りしがちな構築的議論を、心的構造の再解釈とイデオロギー研究にむけて拡大したこと(3)「理論」追求(主として本書1-3章で展開される)のみならず「表象」分析(4-6章)と「政治」批評(7-8章)がなされており、のちの著作が志向する3方向が原型的に示されたことである。竹村はさらにバトラーの全著作を紹介し、本書で新たに論議される思想家の位置づけをした。
  そののち各章の担当者が紹介され、それぞれの見地から本書を報告した。
  吉川純子は、序で示される本書の意義について報告した。バトラーは『GT』で、セックスをジェンダーの前に措定するフェミニズムの立場を覆し、ジェンダーが遂行的であることを主張したが、この主張にたいする批判に応答したのが本書だと位置づけられた。本書のねらいは、身体の物質性を否定するのではなく、それがいかなる規範により形成されるかを明らかにすることだと、報告された。
  清水晶子が報告した1章では、フェミニズムの基盤とされてきた物質という概念が、ジェンダー化された形で構築されると論じられる。「物質」構築の過程で、女性性、異性愛に合わないセクシュアリティ、人種的・国家的・言語的な他者などが、理解・表象可能なものの領域の構成上の外部として生み出され、排
除される。バトラーはこの「物質」構築を、プラトンおよびイリガライのプラトン批判を検証して明らかにしたと、報告された。
  つづいて2章では、身体を構築する権力関係が、今度は精神分析理論の面から検証されると越智博美が報告した。バトラーによれば、フロイトはペニスだけに身体を代表させるまではしなかったのに対し、ラカンはファルスを中心化し、異性愛主義的な身体の形態論を発動させる言説行為を遂行した。このファルスの特権性という虚構を、バトラーは「レズビアン・ファルス」というオルタナティブを提示することで暴いていくと報告された。
  松尾江津子が3章を担当した。性を獲得するさい同一化はかならず失敗し、象徴界の法は「去勢されない女」を産出してしまう。バトラーはここに法の自己転覆の契機を見出し、異性愛主義によって棄却される同性愛をエロス化することが、象徴界の再分節化につながるとする。しかしバトラーが求めるのは、同性愛を象徴界へ参入させることではなく、多様な集団が民主的に論争できるように政治的な提携をはかることだと、松尾は強調した。
  加藤清之が報告した4章では、映画『パリは燃えている』が分析され、異装(ドラッグ)が異性愛を転覆するさまが論じられる。異装するアフリカ系・ラテン系米国人は、みずからの共同体をあえて「家」と呼ぶ。それによって「母」や「育成」といった言葉も再定義され、異性愛の言説を揺るがす契機になると加藤はまとめた。
  ウィラ・キャザーの作品が分析される5章を、高橋が担当した。キャザーの作品では、人物の名がジェンダーやセクシュアリティが交差する同一化の場となり、そこでレズビアンのセクシュアリティが偽装されている。禁止により排除されるはずの名は、逆に禁止によって増殖していくと論じられていると報告された。
  大池真知子が報告した6章では、ネラ・ラーセンの小説『パッシング』が分析される。バトラーによれば、異性愛と純血にまつわる社会規範は、レズビアン欲望と人種混交をその構成的外部として生産する。バトラーがこの構造を作品に読みこんだ意義を大池は強調した。
  竹村は7章の意義を3点挙げた。(1)精神分析とイデオロギー研究の接続(2)interpellationやsubjectionの理論の閉塞性を
政治のダイナミズムに切り拓こうとした点(3)現実界の再考をつうじて性的差異の位相を明確化しようとした点である。また本書では批判されたジジェク、ラクラウだが、共著(2000)では再度「対話」がなされており、この3者の理論的距離の再考は、今後の批評理論の展開に不可欠の要素であることが示唆された。
  ふたたび加藤が8章を報告した。「クイア」という言葉は、異性愛の言説の外側で「クイア」と名指しされてきた者のあいだで繰り返し使われることにより、再定義された。このことからバトラーは、確固たる根拠があるかのようにみえる異性愛も、繰り返しの作用から生じる不安定さを隠しながら、ようやく維持されているものでしかないとする。異性愛がもたざるを得ないこの不安を強調して、加藤は報告を終えた。 
  つづいて質疑応答が行われ、以下のような議論がされた。
  まずconstructivismとconstructionismの違いが確認された。前者は、セックスを言語のなかに固定することで、セックスに
検証不要な地位を与えるため、バトラーは前者の考え方に否定的である。スピヴァックがconstructionismは一種の本質主義であると主張したのと同じ文脈で、バトラーはconstructivismを用いていると思われる。
  つぎに、精神分析を文学研究に用いる意義について疑問が上がった。これに対しては、近代における性の二分法を理論的に支えるのが精神分析であり、したがってバトラーも、精神分析を分析対象にしていると指摘された。
  最後に、言語の「引用」と身体の「引用」の違いについての問いがあった。これに対してはまず、バトラーは、規範の引用が蓄積したものを身体としているのだと指摘された。つづいて、バトラーの議論は言語と身体の二元論をなくすことに発しているという意見が出た。バトラーによれば、われわれが「所与の」物質としてとらえているものは、「言語によって」物質であると詐称されているにすぎないものである。さらに議論は続く気配がみえたが、時間が大幅に超過したこともあり、懇親会などにもちこされた。報告形式を含めて、時間配分を今後の課題として検討するつもりでいる。

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