
プロジェクトD(視覚表象)の第2回文献検討会は、発表者に中嶋泉、コメンテーターに香川檀を迎え、Griselda Pollock, Looking Back to the Future: Essays on Art, Life and Death, 2001 所収の3つの論文、" feminist interventions in history: on the historical, the subjective, and the textual"(初出1990、以下同)、"painting, feminism, history"(1992)、"abandoned at the mouth of hell or a second look that does not kill: the uncanny coming to matrixial memory"(1997)を取り上げた。同書は『視線と差異』などで知られるイギリスの美術史家・批評家グリゼルダ・ポロックの近著で、精神分析理論を導入して作品や芸術家を考察する論考を収めている。中嶋の発表では、ポロックの方法論の変遷を概観する形で上に挙げた先行する2論文に触れつつ、ブラカ・リキテンベルグ・エッティンゲーのマトリクス理論とその実践としての絵画作品《エウリュディケ》シリーズを分析した3つ目の論文を中心に報告がなされた。
発表者は、まずポロックの研究歴とその方法論について、(1)1970年代から80年代まで:唯物論的な歴史学・社会学理論をもとに、芸術空間や画家の身体にひそむ美術の構造的なジェンダー差別の分析、(2)1980年代:フェミニズム精神分析理論の批判的応用と「社会における個人」のジェンダー配置の分析、およびフェミニズム美術による文化の場への介入の可能性の読み取り、(3)1990年代:同時代の女性画家たちの「差異」の介入による絵画の意味作用の変容の理論化、と概観した。そしてポロックの美術批評が、女性の経験や主体性を書き込む試みとしての美術作品の紹介と、そうした作品を読み取るための批評言語の探索に力を注いできた点に言及し、これまでのフェミニズムの精神分析理論は、ラカン的な主体形成理論の否定を通じて成立するため、文化的意味を作り出す領域=象徴界に参入しないがゆえに、ポロックにとっては満足しえないものであって、その乗り越えの可能性をエッティンゲーのマトリクス理論に見出したことが紹介された。
ついで、エッティンゲーのマトリクス理論とマトリクシアルなまなざしについて、ポロック論文に即しながら概念整理が行われた。マトリクスとはラテン語で「子宮」を意味する語だが、エッティンゲーはラカン派のように去勢ではなく妊娠後期の母子関係を主体形成のモデルとして想定し、「私」と「私でないもの(非=私)」の接触によって主体が形成されるとする。この接触は常に部分的で変容するので、過程である主体性、「部分=主体」が保たれる。またエッティンゲーは「まなざし」を「エディプス的まなざし」「ファルス的まなざし」「マトリクシアルなまなざし」に分けて解釈する。「マトリクシアルなまなざし」は、「ファルス的まなざし」と同様、客体・対象の側にあるものだが、対象aとの別の関係を示す。「マトリクシアルなまなざし」においては「私」と「非=私」とが階層的秩序のない関係にあるため、「女性的なもの」は象徴界において抑圧されることなく、境界線上に「私」と共存することになるという。
ポロックはマトリクス理論をホロコーストの表象へと適用していくが、それはホロコーストのトラウマが「象徴化」されず「記憶」となりえないでいるという点で「女性的なもの」と同じ位置にあると考えるためである。さらに、それらを記憶し表象し得ないことこそ既存の西洋文化の知の構造的な欠陥であると見なし、マトリクス理論に可能性を見出す根拠と倫理的判断とが示された。
続いて、ポロックによるエッティンゲーの《エウリュディケ》シリーズの分析が説明された。ポロックは、エッティンゲーの《エウリュディケ》を、対象を「殺す」オルフェウス的=エディプス的まなざしを退け、対象との別の関係を作り出す「マトリクシアルなまなざし」を呼び起こすことを試みるものと考える。そして「マトリクシアルなまなざし」による対象との関係は、記号やイメージに完全に媒介されるのではなく、エッティンゲーが「メトラモルフォシス」と名づける変容の過程に媒介され、まなざし=「非=私」と出会うことが目指される。メトラモルフォシスのトロープは物質的なレベルに想定されており、もととなる写真はフォトコピーによって「灰」を想起される粒子に還元され、手彩色によってその痕跡がたどられる。それによって対象との関係は、まなざしによるイメージの全体的把握ではなく、部分的接触となり、写真が持つ意味が変容される。また部分的接触であるがゆえに、見るものと見られるものの関係は未完であり続け、この関係で生成される主体性は部分=主体となる。他方、従来のオルフェウスとエウリュディケの物語は、芸術家とそのミューズ、見ることと死の関係性を象徴し、可視性が基盤となったファルス中心主義的アレゴリーであり、西洋文化の基本構造であると考察される。ポロックは最後にクリステヴァのアブジェクトを問題にし、それが象徴界を脅かすものとして回帰するものの再び棄却されるため、「女性的なもの」もホロコーストの視覚的経験も、アブジェクトとして棄却され他者として認識されることになり、それがラカン的なパラダイムに基づく精神分析理論の限界であると考える。翻ってエッティンゲーのマトリクス理論とマトリクシアルな絵画は、主体を脅かすとされる「表象不可能なもの」へ、主体が崩壊することなく接近し出会うための通路を設け、象徴化、記憶化を可能にするものだという結論が述べられた。
最後に、発表者から次の2点の問題が投げかけられた。(1)理論は絵画に何をしているのか。ポロックの考えでは「見えないものの痕跡」の物質性を制作と経験の主軸に据えることで、「女性の身体の不可視な特殊性」が象徴化されるというが、実際には視覚的経験ではなく理論によってのみそれが可能になっているのでないか。(2)ポロックの研究における絵画の特権化とその根拠。
発表の後、香川より、ホロコーストの表象とジェンダーという観点からコメントがなされた。まず、ホロコーストの表象の可能性・適切性をめぐる現在までの議論が整理され、表象の抑圧とフェティッシュ化の対象という点では女性性とパラレルであり、美的観照の対象として形象化されることによって空虚な記号になりかねないこと、そのため表象の適切性が求められ、造形的なレトリック分析が要請されることが指摘された(具体例:クリスティアン・ボルタンスキー、ヨッヘン・ゲルツ、ダニエル・リベスキント)。またレトリックという点では、隠喩と換喩の二項対立の読み直しが進行中という文脈からすると、エッティンゲーのいうメトラモルフォシスも、この二項対立の克服の試みの一つと位置づけられるとした。また《エウリュディケ》シリーズは写真を基にしているが、出来事の痕跡の収集と加工という点からボルタンスキーやアンゼルム・キーファー、ゲルハルト・リヒター、ジークリット・ジグルドソンらの作品と比較しつつ、リズムやパルス、反復する筆触が支配するエッティンゲー作品の場合には、イメージより物質性が前景化することが示された。そして物質性=触覚性=部分的接触と考えるなら、そこからエッティンゲーが理論展開したような、自己の経験ではない経験を共有しうる「私」と「非=私」が共存するマトリクス的なありかたが可能になることが言及された。最後に発表者の問題提起への応答として、現代美術が理論抜きでは自律しえず、それを認めることからしか出発できないのと同時に、理論が独断専行するのではなく造形の分析とのリンクが必須であることが述べられた。
質疑応答では、まず発表者の問題提起に応える形でポロックにおける視覚中心主義が議論され、さらにホロコーストと女性性をパラレルに扱うことの問題点や、表象された犠牲者の匿名性の問題などが討論された。またエッティンゲーのマトリクス理論に関しても、妊娠後期が理論モデルとして採用されているために本質主義や母の機能の神秘化にならないか、またラカン理論の修正や対抗理論に留まるのではないかという疑問が提出された。《エウリディケ》シリーズに対しては、写真を穏健化し美化して受け入れやすいものに変容してしまっていないかという指摘があった。
以上のように、ポロックの論文は精神分析理論と美術史と美術の実践をめぐる刺激的な議論を触発し、さまざまな問題点が洗い出され確認され、きわめて有益な文献検討会となった。