Frontiers of Gender Studies ジェンダー研究のフロンティア
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2006/1/15 “Critique, Dissent, and Politics”



【日時】2006年1月15日 14:00〜17:30
【場所】お茶の水女子大学 文教育学部1号館 1階会議室
【講義者】ジュディス・バトラー(カリフォルニア大学バークリー校)
【司会】竹村和子(お茶の水女子大学)
【企画】プロジェクトD(理論構築と文化表象)
【記録】三浦玲一(一橋大学・お茶の水女子大学COE客員研究員)
【備考】使用言語は英語と日本語、出席者37名

【内容】(敬称略)
  前日の講演につづいて、お茶の水女子大学の大学院生、および、お茶の水女子大学21世紀COEプログラム『ジェンダー研究のフロンティア』のメンバーにむけて、ジュディス・バトラー教授から講義が行われ、その後、活発な質疑応答がなされた。ゼミナール形式にちかいかたちで行われた本企画は、高名な教授と聴衆のあいだの距離を縮め、非常になごやかな雰囲気のなかで進行された。
  「批評、異議、そして政治」と題された講義は、ミシェル・フーコー、ヴァルター・ベンヤミンの議論を手がかりにしながら、批評(クリティーク)とはなにか、またそれはどのようなものであるべきかという問いを検討し、さらに、それを踏まえながら、今日の戦争をわれわれはいかに批判すべきか、また、現代における人文学研究はどのような批評的役割をおうことが可能かを思考したものである。
  フーコーの「批評とはなにか?」を通じて、バトラーは、可変的な主体概念と批評とはどのように接続されるべきかを鮮やかに論じた。批評という言葉は、通常、ある特定の対象に対してその批判をすることを意味するが、真にラディカルな批評はそこにとどまらず、その対象が包含される領野の全体を、その対象をその対象としてあらわしむる「現実」そのものを、批判することとなるし、そうならなければならない。
  フーコーによれば、美徳である批評、勇気ある批評とは、主体がその主体を存在たらしむる条件そのものを批判することである。主体が理解可能な主体、認識可能な主体として登場するためには、その主体はなんらかの社会的な規範に順応しなければならない。その規範への順応をとおして、われわれの語ることが他者に聞かれることが可能になるのである。そして、真の批評とは、そのような規範そのものを問題化することにある。そのような批評だけが、たとえば、なぜあらゆる新生児は女か男か決定されなければならないのかという疑問を提出することが可能なのだから。それは主体が、理解不可能な領野へとひらかれていくことを意味している。
  ベンヤミンの「暴力批判論」は、バトラーにとって、ラディカルな批評において、暴力とはなにを意味するのかを考える契機となる。暴力を規制するために法は存在するという伝統的な思考を批判して、ベンヤミンは、法が前提とする暴力、法によってこそむしろ支えられた暴力の存在を指摘した。法の前にたつ主体は、その法に従属することを誓ってはじめて、市民権を獲得する。法の暴力とは、その従属の命令、生存可能であるためにはその法にしたがわなくてはならないという命令のはなつ暴力であり、また、法にしたがわなければそこで一連の権利をうばわれるという脅迫の暴力である。
  法による暴力という指摘は、その法を批判することは、市民としての市民権、主体としての生存可能性を危うくすることであるとしめしている。ここでもまたラディカルな批評は、自身の存在する領野、現実の全体を批判しながら、その全体をより公正なかたちへと導こうとする営みである。暴力へのラディカルな批評は、主体が、法のなかで、法によって、暴力的に形成されることを指摘し、だからこそそれを踏まえたうえで、今ある主体を今ある主体たらしむる制度の全体を批判しようとする試みとならなければならない。
  このような視点からみるとき、合衆国の現在の戦争は、理解可能な現実を制限し、規制することで成立していることは明白だ。爆撃の音をメディアで聞くことはできないし、戦死者の棺をわれわれはみることができない。もっともはなはだしいものは、戦争協力の名で行われる、言論の自由の抑圧である。政府への批判は、テロリズムへの協力というレトリックから封印されようとしている。政府は、ベンヤミンも指摘しなかった法外な暴力、恣意的な法をつくりそれを施行するという立法の暴力を行使して、われわれを抑圧しようとしている。
  国家権力によって現実が構成されようとする、この歴史的な現在においてこそ、人文学は、文学研究と批評理論は、その力を発揮しなければならない。真の批評とは、主体がみずからの理解可能性を賭して、みずからをなかば社会的に理解不可能な主体として存続せしめることで、現状を批判することである。方向を失うこと、理解不可能な領野へ、なかば意図的に、迷いいでること―これは、たとえば、文学の力であり、そしてラディカルな批評への契機である。
  バトラーの力強い講義ののち、一時間ちかくにわたって、熱心な質問が続けられた。大学院生は、入念な準備のもと、文学の政治的な意義、性的マイノリティのアイデンティティの位置、パフォーマティヴィティの再定義、固有名の機能とラカンにおける象徴界の性質などについて、彼女の著作の意味の説明をもとめた。司会の竹村和子とその他COEのメンバーは、精神分析の読み直しとマゾヒズム概念の可能性について議論をなげかけた。

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