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2006/10/8 Joan Copjec 講演会



【日時】2006年10月8日(日)16:00〜18:00
【場所】お茶の水女子大学 人間文化研究科棟 6階大会議室
【タイトル】“Shame, the Modesty System, and the Cinema of Kiarostami”(講演時のタイトルは、“The Descent into Shame”)
【講師】Joan Copjec(ニューヨーク州立大学バッファロー校)
【コメンテーター】下河辺美知子(成蹊大学)
【司会】竹村和子(お茶の水女子大学/COE事業推進担当者)
【企画】プロジェクトD-1 英語圏 
【記録 講演会要旨】内堀奈保子(お茶の水女子大学大学院博士課程・COE研究員)
【記録 質疑応答】戸谷陽子(お茶の水女子大学・COE学内研究員)
【備考】使用言語は英語
     出席者63名(学内+学外)
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【講演会要旨】(敬称略)
  本講演は、現在ニューヨーク州立大学バッファロー校の英文学、比較文学、メディア学の教授で、ラカン派精神分析批評を代表する気鋭の論客、ジョアン・コプチェクを講師に迎えた。日本では精神分析と映画批評を絡めたRead My Desire: Lacan against the Historicists(1994)(『私の欲望を読みなさい』)やImagine There’s No Woman(2002)(『<女>なんていないと想像してごらん』)が既に翻訳されており、講演当日は最新の議論を聴こうと来場した参加者で混みあった。今回コプチェクは、上記邦訳の後者で一部取り上げられていた「恥じらい」の感覚に焦点を当て、それがイスラム文化における女性の主体形成にどのように影響し、どのような困難を孕んでいるのか、アッバス・キアロスタミの作品を題材に論じた。
  コプチェクは、イスラムの映画制作を制限してきた「恥じらい」、あるいは、「慎み深さのシステム」を象徴するものとして、ヘジャブ(イスラム女性が顔を覆う布)を取り上げた。イスラム女性の映画表象に多大な制限を課しているこのヘジャブ規制は、女性自身の身体を隠すと同時に、監督や撮影クルーを含めた親族以外の男から投げかけられる外部の視線全てを女性から遮断する。コプチェクは、この覆い隠すという恥じらいのシステムが、時に不当に利用されかねないことを、アブグレイブ収容所でのイスラム兵への性的拷問を引き合いに提起した。コプチェクによれば、恥じらいとは、<他者>からの禁止や非難の視線をうけて感じる個人的な感情ではない。ここで言う恥じらいとは、明確な対象を持たず、それを感じること自体が主体としての経験となるような感情である。この感情は、対象を持たないゆえに、個別的な反応と社会的な反応という矛盾を併せ持つものだという。コプチェクは、この一連の恥じらいについての考察を、イヴ・セジウィックがツインタワー跡地を9・11以後に見た際の恥への言及を端緒に論じた。
  イスラムにおける恥じらい、或いは「慎み深さのシステム」を考察するにあたり、コプチェクはキアロスタミの『風が吹くまま』(1999)を取り上げる。キアロスタミ作品の多くはヘジャブ規制を遵守しているが、この作品はイラン女性のプライヴァシーと尊厳が都市テヘランから来村する主人公の男(べザード)によって冒涜されていると読まれている。しかしコプチェクは、資本主義社会を象徴する都会出身の主人公が田舎の村を侵略するという、地政的、文化的異相性に基づいた先の読みを排し、代わりに、べザードと村人の位相の違いを、過去と現代との複雑な関係の上に考える。つまりコプチェクは、イスラム女性の屋内の様子を見ようとするべザードの行為が、文化的過去から自由になっているはずが、実は現在にわたって残余し続けている「過去の芳香」に強く引き寄せられ、常にその「余剰」なものの不安に捕らわれているという現代人の特性を可視化するものとして読んだ。
  コプチェクはさらに、この不安概念の論考を、恥じらいの考察へと接合する。この恥じらいとは、「喪失」ではなく、ラカンのジュイサンスとも響きあう「過剰」または「余剰」の感覚である。また、ここでの不安と恥じらいの差異は、前者が逃避を望むのに対して、後者が見たくないもの、隠してしまいたいという感覚である。コプチェクはこの区別をレヴィナス初期の見解に影響を受けているとしつつも、彼女自身は恥じらいを積極的に捉えようとしている。コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。
  むしろコプチェクは、自分と自分自身との間のズレを感得し、自己の感情に目覚め、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることに気づくこと、つまり恥じらいの経験こそ主体形成にとって重要であると考える。論証として、『風が吹くまま』の問題の場面(べザードが、地元の娘ゼイナブのいる暗い屋内に入り込み、牛の乳を搾らせる)を取り上げた。コプチェクによれば、イスラム女性の屋内の様子を見ようとするべザードの行為は、アブグレイブ収容所でのイラク兵の様子を暴く写真と同じく露悪的であるが、ここで注目すべきは、べザードの行為ではなく、乳搾りをする娘が恥じらいの感覚に目覚めることだという。ここでの目覚めとは、べザードという明確な対象によって引き起こされるものではない。むしろ、認知不可能な<他者>の眼差しを感じたために生じるような感覚である。コプチェクは、娘がべザードの口ずさむエロティックな詩によって乳搾りの行為を干渉され、乳搾りの行為と自分自身との間にあるズレに気づくこの場面こそ、恥じらいという感覚が自己にわきおこる瞬間、つまり、自身のアイデンティティの欠如が社会的に目に見える形になっていることを認識する瞬間を表していると分析した。
  最後に、プライヴァシーは主体に付随するものであり、侵してはならないものではあるが、主体の自己の感情や恥じらいの感覚が、他者との関係に基づくものである以上、イスラム女性が社会と関わりを持つ自由がプライヴァシーの損傷を免れることは難しいことであるとも指摘した。その上で、キアロスタミ映画は、イスラム女性が公共の場に入ることや他者との関係を結ぶことを制限されているなかで、どのような恥じらいの経験をとりうるのかという問題を提起してくれているとして評価した。

【コメント要旨】
  それに続いて、下河辺美知子(成蹊大学)がコメントを発表した。下河辺はコプチェクの講演を要約しつつ、近代主義(modernism)と資本主義(capitalism)という二つの-ismがここで問題にされていることを指摘し、資本主義の余剰が、覆いをすることと取ることというヴェールの機能によって顕在化すると論を発展させた。そのうえで、アメリカ文学の金字塔の一つである『白鯨』のエイハブ船長の「仮面」にまつわる台詞を、9.11以後のコンテクストを射程におきつつ、サイードにからめて紹介した。大文字の「他者」についても、イスラム世界との関係で論じ、最後に、9.11以後には、この惨事の理由を考察しようとする研究者を排除しようとする政治風土が米国に見られ、バトラーなどもそれを嘆いているが、このような講演を米国でおこなう場合の聴衆の反応をどのように想定しているかという質問を、コプチェクに提出した。

【質疑応答】
  続く質疑応答に際し、コプチェクはまず過去の講演会における質疑応答に言及し、聴衆が、彼女がヘジャブを批判しているのか否かという疑問をもつであろうと想定して、イスラム女性がヘジャブを着用する行為を批難するものではなく、へジャブの着用が、イスラム女性が公の活動に従事する可能性を複雑に制限するシステムとして作動することを問題とするものであるとの自身の立場を言明した。フロアからは、ラカンやレヴィナスとの関連におけるコプチェクの恥の定義に関して、精神分析的アプローチをイスラム文化に適用することについての是非などについて質問・コメント・問題提起がなされた。
  イスラム文化圏の恥の概念を、西欧の精神分析的なアプローチによっては適切に分析できないのではないかとの指摘に対しては、恥についてはその感覚の共有が可能であることをこれまでの彼女の研究から想定しており、精神分析的なアプローチを映画研究に適用したことで、結果的にさまざまな概念を再検討する機会を得たこと、またイスラム文化を扱うさいに精神分析はわずかにシフトすべきであると応答した。精神分析に関してはこのほかにも、フロアから、精神分析それ自体の前提を文化折衝によって変えていく必要があるのではないかというコメントが提示された。



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