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2007/2/10 第4回COEジェンダー英語圏年次大会 第1部・第3部



【企画】プロジェクトD 英語圏
【タイトル】「文化/テクノロジーとジェンダー」
【日時】2007年2月10日(土)14:00〜17:30(第2部は別に記録)
【場所】お茶の水女子大学 理学部3号館 2階会議室
【記録】佐藤里野(お茶の水女子大学大学院博士課程)
【備考】使用言語は日本語。出席者82名(学内+学外)

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 第1部:パフォーマンス
  【発表者】イトー・ターリ(パフォーマンスアーティスト)
  【題目】「Rubber Tit」
  【司会】竹村 和子 (お茶の水女子大学)

 第3部:壇上対談 
  【発表者】イトー・ターリ×竹村 和子
  【題目】「ジェンダーをパフォームする力」

 イトー・ターリによるパフォーマンス「Rubber Tit」は、会議室から机や椅子を運び出してつくられたスペースで行われた。そこでイトーは、床に座る観客を前に、いっぱいに膨らまされた巨大な「ゴムおっぱい」(Rubber Tit)を用いて様々なアクションを見せる。同時に、会場に設置されたスクリーンには、レズビアンであることをカミングアウトする政治家の映像(音声は日本語、字幕は英語)が流されていた。さらにイトーが「ゴムおっぱい」を観客の中に投げ入れることによって、観客はその手触りや匂いを直接的に体験する。30分ほどの間に、様々なインターアクションが引き起こされたパフォーマンスであったといえる。
  パフォーマンス後行われた竹村との対談では、まず、竹村から「パフォーマンス・アートとは何か」というトピックが挙げられ、関連するいくつかの質問にイトーが答えるという形で進められた。

竹村: どのようにしてパフォーマンス・アートを始めたのか。
イトー: (身体表現を始める以前に)美術をやっていて、モノや建物などのオブジェと、身体との関係に興味をもった。そこで、まずは身体の使い方を学ぶためにパントマイムのレッスンを受け始め、「身体を分解して動かす」というテクニックをそこで教わった。しかし、パントマイムというのは結局演劇の一部であって、最終的には「お話」を作るというところに向かうもので、(自分はもっと美術的なものをやりたいと思っていたので)だんだん興味が持てなくなっていった。そのように感じていた時期に、オランダでムーヴメント・シアターというものに出会った。そこでは「空間の中に身体をどのように置くか」ということが行われており、自分が本当にやりたいことがそこにあるというふうに思った。そこからパフォーマンス・アートと呼ばれるようなものに引き込まれていった。
竹村: 最初にマイムの訓練を受けたということだが、「訓練」はある種制度的な側面が、それに対して「パフォーマンス・アート」は即興性や一過性といった側面が強いように思うが。
イトー: マイムからパフォーマンス・アートへの移行の段階で、マイムのテクニックを一切拒否するようになった。マイムというのは、「自分が全て」、つまり、自分の内にあるイマジネーションを動機にして何でもできるという世界。そこでカタツムリならカタツムリを形態模写のように演じるというようなことを一生懸命続けていたが、ある時それがすごくつまらなく感じるようになった。「動機は自分の内ではなく外にある」ということに、この時に気付いた。例えば、机や椅子というモノがあって、それらとの関係の中で、自分が何をするのか、というようなことを考え始めたときに、パフォーマンス・アートへの道が開けたような気がした。
竹村: そこでは、パフォーマンスを見る観客は、パフォーマー(イトー)とだけでなく、パフォーマーを動かしている(机や椅子といった)別のモノとも結びついているといえるが、それについてどのように考えているか。
イトー: 自分がそこでモノに対して持っているのと同じような気持ちを、観客と共有できているというふうに信じている。観客とできるだけ同じような立場で同じように感じたいという意味では「共有」という意識が強い。ただ、パフォーマンスしている自分の側には、トランス状態ぎりぎりのところにいる身体というものがあり、「伝達」ということを考えるときには、この身体が絶対に欠かせないものとしてある。
竹村: そのような身体性を通して伝えられる「崇高さ」(のような)ものを、観客は「感動」あるいは「奇妙なもの」として体験するわけだが、その後、観客が「日常」に戻っていくとき、その「体験」をもう少しわかりやすい形、つまりある種の政治的なメッセージに変えて持ち帰っていくという度合いが、パフォーマンス・アートの場合(いわゆる「芸術」よりも)強いと思う。この時、パフォーマンスの場での「体験」と、持ち帰られる「メッセージ」との間の差は、それぞれの観客に任せるのか。
イトー: 任せている。パフォーマンスの場で、「日常だけど、日常から少しはみ出ている」という感じを味わって、記録として持ち帰ってもらえたら、それで成立しているものだと思っている。

 後半では、フロアを交えての質疑応答が行われ、主に、イトーがパフォーマンスの「場」をどのように考えているのかという点に関心が集まった。このやりとりの中で明らかにされたのは「観客」を含めた「場」に対して、イトーの側から条件として望むものは何もないという姿勢であり、それは事前に行われた「ゴムおっぱい」のパフォーマンスに通じているものであることが、改めて覗われた。さらに、セクシュアリティに関する質問も寄せられ、竹村、イトーの二人が次のように語る場面もあった。

竹村: 「セクシュアリティ」は様々な社会的因子から成っていて、生活の中に複雑に織り込まれているので、誰ひとり、その言葉と無縁ではいられないということは感じている。ただ、(同性愛/異性愛などの)二分法に基づいている「セクシュアリティ」という言葉よりは、「エロティック」という言葉の方がいいのではないかという気がする。「どんなものにエロティックに反応するのか」というような。
イトー: (竹村の発言を受けて)たしかにパフォーマンスをしているときにあるのは、「エロティック」ということだけで、そこにセクシュアリティがどうこう、というのはない。そうすると、自分のことをそんなに「レズビアン」だと言わなくてもいいかな、とも感じるが、同時に「レズビアン」という存在を可視化したい、知って欲しい、という気持ちもある。(そのような気持ちから、カミングアウトの映像を用いている。)つまり、矛盾が同居している中でやっているということ。

 対談の最後は、次のようなやりとりで締めくくられた。

竹村: パフォーマンスを通して表現される様々な感情が、ヴァイブレーションを引き起こすとき、以前の(イトーの)パフォーマンスには、「苦しみ」「絶望」「怒り」「悲しみ」といった感情が多かったように思う。しかし今日のパフォーマンスには、「笑い」というものを感じた。
イトー: たしかにこれまでは、自分はこんなに大変なんだ、ということをずっと言い続けてきた。でも、それに飽きてしまって。そんなことずっと続けていられないというか。それに、「もっといろんな人がいていいんじゃないか」ということを、自分の中に取り込めたことで、変わったのだと思う。「だから、そうだとしたら(「笑い」を感じてもらえたとしたら)すごく嬉しいです。」


  約40分という短い時間ではあったが、パフォーマンスの後に直接話しを聞ける貴重な機会であることに加え、「観客と同じ位置に」というイトーの姿勢がそのまま対談にも反映され、話し手の2人とオーディエンスとの距離が非常に近く、充実した、かつ笑いに満ちたひと時であった。



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