Frontiers of Gender Studies ジェンダー研究のフロンティア
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第一日目(浅草)
【記録】高橋愛(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)

【概要】
  第一日目にはまず浅草公会堂において小森陽一氏(東京大学)より、大和時代以来の王朝人にとっての教養と浅草との関係についての講義を受けた。
  定説では浅草という地名は、『江戸往古図説』の「武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべし」という記述に由来している。この説に従えば、浅草は世界の果てとも言える地であり、天皇制の拠点が奈良に置かれた際の差別的名称の名残を地名に戴いていることになる。浅草は浅草寺の門前町として栄えてきたが、その浅草寺のはじまりは、ジェンダーバイアスがかかった地としての浅草のはじまりとも言える。というのも、浅草寺に祀られていると聖観音像が現在の隅田川に流れ着いた628年は、推古天皇の統治が終わり、蘇我氏と天皇家とのあいだで繰り広げられる大和朝廷の権力闘争が始まる時期、すなわち、女が権力者になりうる体制から女を排除した男性中心主義の体制へと移行する時期でもあるからである。名所とは言葉が宿るトポス―事実かどうか定かでない事実と虚構とのあいだを漂いながら事実が堆積していくことで多くの人がそれを信ずるようになる場―であるということを踏まえれば、浅草は権力が関わる欲望や不気味さが潜む地だと言える。
  浅草には古くから都とのつながりがあり、例えばそれは『伊勢物語』に示されている。『伊勢物語』の東下りの段で、在原業平とされる男は、「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と歌っているが、これは都から決定的に離れることをあらわしている。そして在原業平が都から遠く離れた地に流されたことは、権力をめぐる体制の変化を反映したものなのである。平安以前の時代には男が歌を贈って女を誘惑するのが習いであったが、そのような時代において、折口信夫が言うところの「いろごのみ」―優れた女を誘惑することのできる言語能力や教養―は、権力、すなわち天皇制に関わる者に必須とされるものであった。「いろごのみ」である在原業平は、女を誘惑する言語能力や教養において天皇よりも優れているがゆえに、道具としての女を介在させることによって権力を握る藤原摂関政治にとっては敵と映り都を追われたのである。ちなみに『源氏物語』の光源氏は「いろごのみ」の残像たる人物であり、『源氏物語』は皇統の攪乱が見られる物語だと言える。
  藤原摂関政治において天皇は、新たな子の誕生を防ぐために、子が生まれると女人禁制の寺に入れられた。その際、天皇を誘うべく言語能力や教養を発揮してきた朝廷の女たちも都から排除されたが、後ろ盾を持たない者は、都の文化を伝える女旅芸人として地方に流れることになった。これが遊女のはじまりである。遊女を表す「女郎」は「高位の姫」を表す「上臈」がなまったものだとされることからも、このことは裏付けられるだろう。
  江戸時代になると、吉原遊郭の移転や芝居小屋の設置等により、浅草は信仰の場であると同時に繁華街としても栄えていく。歓楽街としての浅草は、権力者が住まう江戸城が男性的なイメージでとらえられたのに対し、女性的イメージあるいは庶民のものとしてとらえられた。さらに明治期を迎えると、浅草は規律訓練からはみ出す者が集まる地として取り締まりの対象となる。そして現在では、再開発を免れたがゆえに「古き良き日本」を残す街としてのイメージが浸透することとなったのである。
  講義の後に質疑応答がおこなわれ、東京大空襲が浅草に及ぼした影響の有無、吉原の遊女や遊郭のイメージの近代文学における表象、在原業平の歌が勅撰和歌集に収められた意味、浅草という地の方位や配置とジェンダーの関係に関して質問が出された。
  その後浅草寺を参拝したのち、粧太夫歌碑や乳母が池碑などの講義で紹介された場所を中心に浅草の地を散策した。


第二日目(少女マンガと宝塚)
【記録】川原塚瑞穂(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)

【概要】 
 ツアー2日目のテーマは「サブカルチャー」である。「アニメ」や「ゲーム」、「マンガ」といったサブカルチャーは、今や現代日本文化を代表するものの一つとして、国際的レベルで需要と供給がなされている。今回のツアーではその中でも特に、女性たちが自らの手で育み守ってきた文化として、「少女マンガ」と「宝塚」をキーワードにプログラムが組まれた。
午前中は、集英社からお二人の編集者を講師としてお迎えして、「少女マンガ」と「宝塚」についてのレクチャーが行われた。集英社は、早い段階から女性読者を意識した雑誌や書籍を出版し、女性文化の発信地として現在も重要な地位を占める出版社である。
  まずは、女性漫画雑誌「YOU」編集長の斎藤和寿氏より、少女マンガ、女性マンガについてのお話をいただいた。斎藤氏は、現場にかかわってきた編集者ならではの視点から、まず漫画作りのディテール、例えば紙の話や、作業工程とそれにかかる時間などを、実物を用いながら具体的に紹介された。次に、「YOU」や「YOUNG YOU」という、より読者年齢層の高い雑誌についての次のようなお話があった。少女の成長した先にある「性」を描く漫画としてレディースコミックが登場するが、ブームとともに性描写が過激になり、少女と女性の中間のヤングレディースの分野が生まれた。そして、性が日常のものとして描かれるようになると、作者も読者も、大事なのは性ではなく心の部分だということに気付き始めた。では、今後女性漫画はどのような方向に向かっていくのか。斎藤氏は、「少女」「女性」「ヤング」といった枠組み自体がもう古いのではないかと述べ、面白い漫画とは何か、大人の女性が読むに足りうる漫画とは何かという問いかけを編集者は日々しているので、今後も期待して漫画を読んでほしいと締めくくった。
  続いて、文芸書の編集者である村田登志江氏に、宝塚について、ファンの視点からお話をいただいた。村田氏は、作家の田辺聖子に薦められて初めて宝塚(演目は『新源氏物語』)を観劇した時の体験とからめつつ、宝塚の特質を次のように述べられた。まず、『新源氏物語』で日本舞踊をオーケストラで演じることに何ら違和感がないことに驚いたが、洋楽で日本ものを上演するのは、日本のオペラを目指した宝塚歌劇独特の要素である。また、男装の麗人ではなく、女の理想の男を女が演じるという点に宝塚の特徴と独自のエロティシズムがある。さらに、宝塚音楽学校を卒業して劇団員になるという独自のシステムがあり、卒業後も生徒と呼ばれ、またはタカラジェンヌと呼ばれる全員未婚の女性により構成されている。最後に、革命、SF、古典など、どんな物語でも最後には大階段が吊り下げられ、全員が羽を背負って序列順に並んで終わるという豪華絢爛なエンディングに触れ、それこそが宝塚の魅力であり、戦略でもあるとまとめられた。
  午後は、日比谷の宝塚劇場にて、宙組によるミュージカル・ロマン『バレンシアの熱い花』およびコズミック・フェスティバル『宙FANTASISTA!』を鑑賞した。『バレンシアの熱い花』は宝塚歌劇団のオリジナル作品で、19世紀初頭のフランス支配下のスペインを舞台に繰り広げられる愛と情熱の復讐劇である。『宙FANTASISTA!』は、宇宙に王子が誕生し、宇宙一周の旅へと出かけるという設定で、月、水星、木星……そして太陽と、それぞれの星をイメージした場面で展開される、新鮮でエネルギッシュなショー作品である。「宝塚文化」を直接体験することとなったこのイベントは、ゲストにも大変好評であった。
  この企画を通して、女性たちによって形成された文化の一端に触れたことは、日本の「いま/ここ」を改めて見直す、また日韓の相互理解を深めるための一助となったのではないだろうか。そしてまた、この日の体験は、続くシンポジウムにおける活発な議論へと結実した。

第三日目(靖国神社、女たちの戦争と平和資料館)
【記録】竹村和子(お茶の水女子大学)
菅聡子(お茶の水女子大学)
丹羽敦子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)
山口菜穂子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)

【概要】
  ツアー3日目、午前の部はビデオ『私たちは忘れない』の鑑賞、および小森陽一東京大学教授による映像解説、午後の部は靖国神社・遊就館を見学ののち、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」での見学・講義を行った。『私たちは忘れない』は、靖国神社に併設された遊就館にて1日7回上映されているドキュメント映画である。解説では、映像が取り扱っている日本近代史の史的背景を踏まえつつ、この映像が詳細に分析された。それに基づいてこの映像の問題点を集約すると以下のようにまとめられる。第一に、この映像の形式面において、ひとつひとつの映像が、靖国史観を映像化し表象する上で、最大限の効果を発揮するよう配列・編集されている点。次に、『私たちは忘れない』という映像作品および遊就館の資料展示の細部においても、「国に命を捧げて戦う男」と「その魂を受けとめる女」というジェンダー構図が展開されている点。さらに、日露戦争以後第二次世界大戦までの、旧日本軍がかかわった戦争を歴史化する際、映像内でその歴史の語りが論理上、矛盾をきたしており、そのため、とくに国家主義的な人種主義によって、論理のすり替えが行われている点。よって、映像で表象されている、終戦から東京裁判に至るまでの天皇免責の経緯と、戦争の意味づけを転換するべく要請されている特攻隊員の称揚という論理を、批判的に考察する必要が生じるだろう。その後、遊就館内での見学ポイントが解説され、日韓両国の参加者は各自、靖国神社と遊就館を見学した。
 遊就館に続き訪れたのは、「慰安婦」問題を中心に、戦時性暴力に関する資料の収集・保存・公開を目的として、NPO法人「女たちの戦争と平和人権基金」が2005年に創設した「女たちの戦争と平和資料館」である。この種の資料館としては日本初のものであり、平和のための「記憶の場所」とアクティブな「抵抗の拠点」として機能することを目的として、次の5つを理念として掲げている。@ジェンダー正義の視点で戦時性暴力に焦点をあて、A被害と同時に加害責任を明確に、B平和と非暴力の活動拠点をめざし、C国家や権力とは無縁の民衆運動として、D国境を越えた連帯活動であること。まず西野瑠美子館長から解説を受け、「慰安婦」として女たちが受けた被害は現在まで続く問題であること、慰安所が作られたシステムを解明しなければならないことなどが力説された。当館設立の提案者であり、「慰安婦」の人権問題に取り組んでいた故松井やよりは、日本軍による性奴隷制を裁くための「女性国際戦犯法廷」を2000年に実現させ、昭和天皇を含む9名が有罪となったが、そこに至る経緯とその後の政治的社会的動向についても説明があった。それによれば、1991年に中国残留の朝鮮籍の元慰安婦が名乗り出て「慰安婦」の名簿作りが始まったのち、吉見義明による軍の関与を示す資料の発見(1992)、河野談話(1993)、「アジア女性基金」の設立(1995)(「法的な責任は無いが、道義的責任によって国民が謝罪する」という立場をとるこの基金の受け取りを拒絶する元慰安婦は多い)などの動きがあったが、判決後には、右傾化や歴史修正主義化の中で「NHK番組改変問題」(2001)などが起こっている。さらに参加者との間では、教科書から「慰安婦」の文字が完全に削除された「教科書問題」や、また資料館への妨害を想定して手段を講じなければならない資料館の実情などについて意見交換がなされた。その後、名前を公表した150余名の「慰安婦」たちのポートレートや、「女性国際戦犯法廷」に関する展示などを見学した。「ナショナリズム」をテーマとしたツアー最終日は、日韓の参加者が両国間を隔てる歴史解釈を共有し、新たに語り直す契機を得ることのできた貴重な1日となった。

 

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