Frontiers of Gender Studies ジェンダー研究のフロンティア
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セッション1 東アジアにおけるナショナリズムとモダニズム

記録:川原塚瑞穂(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員) 

【発表者・タイトル】
李惠鈴イヘリョン(成均館大学)
 「見えない者の視線――植民地期韓国の小説にあらわれた男性知識人の自己定義について」
池内靖子(立命館大学)
 「帝国のロマンス『三態』――『マダム・バタフライ』『M・バタフライ』『ミス・サイゴン』」
カンガラム(梨花女子大学)
 「日韓社会の中の日本軍〈慰安婦〉問題と超国家的女性の連帯の可能性」
江澤美月(お茶の水女子大学院博士後期課程、COE研究員)
 「明治時代のラファエル前派主義――D.・G・ロセッティの『詩集』受容の背景」
【コメンテーター】
 鄭智泳ジョンジョン(梨花女子大学)
 若桑みどり(千葉大学 名誉教授)
【司 会】池田忍(千葉大学)
【備 考】使用言語は日本語・韓国語。参加者 169名。

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【概 要】
  本セッションは、19世紀終盤から21世紀初頭にかけて、東アジアの人々のアイデンティティ構築過程において、参照点としての女性やジェンダー化された文化表象が、多様なメディアにおいてどのように創出され、あるいは召喚されていくのかを検証し、その背後にある錯綜した歴史的な権力関係やその作用を検討するものとなった。
  李惠鈴は、1920年代前半に起こった韓国近代小説の変化を、植民地韓国の男性知識人の自己定義の問題として論じた。「お前は誰だ」と問われる植民地韓国の男性知識人が、下層階級と女性を、植民地の民族的な現実を代表する否定的な表象として発見することによってアイデンティティの動揺を克服しようとする様相を、廉想渉の小説『萬歳前』(1924)に見た。また、男性知識人の自尊心を傷つけずに民族を語る方法として、その後下層階級の女性を主人公とする小説が多数登場していくことを指摘した。
  続いて、池内靖子は、プッチーニのオペラ『マダム・バタフライ』(ミラノ初演1904年)、現代劇『M・バタフライ』(ブロードウェイ1988年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』(ロンドン初演1989年、ブロードウェイ1991年、東京1992年)という三つのテクストと上演のコンテクストを通じて、ナショナリズム、人種主義とジェンダーの交差する帝国のロマンス『マダム・バタフライ』がどのように変容するか考察し、帝国のロマンスが21世紀のグローバルな文化資本として今なお力を増しているそのヘゲモニックな力の作動を検証した。
  続く姜ガラムは、日本軍「慰安婦」問題を解決する新しい転換点を作り出すための超国家的連帯運動の一環である「2000年女性国際戦犯法廷」を取り上げた。異なる民族的経験と国家アイデンティティを持つジェンダー化された民族の構成員である女性が、超国家的な連帯の実験の中でどのような葛藤を経験したのか、そして韓日の運動主体がそれぞれどのように2000年法廷を評価し、その後の活動を続けているのかについて報告し、「立場の違い」に基盤を置く連帯の重要性を指摘した。
  最後に、江澤美月は、1890年代中頃から1900年代初頭にかけて、日本の民間により私的に推進されたラファエル前派の詩人かつ画家のRossetti受容の背景について考察した。ラファエル前派主義が異文化に対する共感的懐古趣味に由来する攪乱性を持つこと、それ故にその私的受容が、大日本帝国の目指す植民地主義に対し異議を唱えるものとなり得たことを指摘し、それが日露戦争後のナショナリズム高揚の中で偏狭な国家主義に回収されていく様相を明らかにした。
  以上4つの報告を受け、鄭智泳は、東アジアの問題とは、結局近代における植民地主義の問題、民族主義の問題にあるという大枠を確認した上で、各報告者に次のような質問をした。
  李惠鈴は、植民地期韓国の小説において、男性知識人が小説を通じて他者としての下層階級、または女性を設定したと指摘したが、現実的に見ると多様性を持つ他者を描く時に、知識人たちはどのようなジレンマにぶつかり、それをどのような戦略を用いて収斂させていったのか。池内靖子は『マダム・バタフライ』から『ミス・サイゴン』にいたる過程の中で、同じ文法を共有しながらもその中に様々なバリエーションがあり変容があると指摘したが、それが何だったのか、例えば『ミス・サイゴン』で温情的な存在として新たに作り上げられたクリスについてなど、もう少し詳しく聞きたい。姜ガラムは、韓国と日本の女性の立場の違いを明らかにし、立場の違いに立脚する対話と融合を説いたが、もっと中でぶつかっている苦痛について議論すべきではないか。また、日本の女性が加害国の国民としての責任を直視することが国家に服務することにつながるという点についてもう少し説明が必要だろう。江澤美月の報告は、攪乱性として大変面白い指摘だが、帝国の規範をあまりにも狭く捉えているのではないか。帝国の規範とは、共感的な懐古主義をすべて内包するような広範囲なイデオロギーであり、その内部には他国の文化を占有しようとする意識が介入している。
  続く若桑みどりは、各報告者に次のように述べた。李惠鈴の報告にあった『萬歳前』は、帝国日本と植民地韓国のあいだを往復する韓国知識人男性のアイデンティティ・クライシスを描いている。彼は帝国日本から植民地を見るまなざしを受けるが、近代化された韓国人として自己をアイデンティファイし、韓国の女性と下層階級を、ちょうど帝国日本が植民地を見たように見返すことになる。池内靖子の帝国のロマンスにみる、帝国は男性、植民地は女性というステレオタイプは断固として100年以上続いている。なぜならば帝国主義はまだ続いているからだ。一方『M・バタフライ』は非常に皮肉なパロディで、植民地の女だと思ったのが実は男であったというのは、中国の植民地からの独立のメタファーとみると非常に面白い。姜ガラムの報告からは、女性被害者を民族の植民地的な犠牲の代表としてみる根深い韓国の民族言説と、国家暴力の被害者であり、その国家の一員でもある日本人女性のジレンマが浮彫りになる。「慰安婦」問題を帝国主義的犯罪としてその他のあらゆる個別的な性暴力から区別した時、初めて帝国主義に反対する超国家的共通認識というものが出てくるのであろう。江澤美月の報告は、帝国主義と植民地の文化形成の問題に挿入することができる。なぜならラファエル前派主義とは古代の復興ではなく、市民的道徳の完全な否定と退廃だからであり、帝国主義はその内部に芸術の退廃を生み出すという事実を示した点が興味深い。日本の、あるいは上田敏の不幸は、Rossettiのように退廃できなかったことにある。
  その上で若桑は、帝国主義時代の文化の特質として、西洋の人種的・文明的優越性の自負、アジア植民地での(日本を視線の先に置く)近代化主義とナショナリズム、日本での(西洋を視線の先に置く)近代化主義とナショナリズムの三つを挙げ、視線の先は違っても、同様の帝国主義と植民地主義の枠組みの中で生まれた文化であると結論せざるを得ないと述べた。
  その後、報告者によるリプライがなされた。李惠鈴は、『萬歳前』作中女性の多様性に触れ、また、男性知識人の主人公にとって、東京は、人種的・民族主義的な表象から脱することができるメトロポリタンとして機能したことを強調した。池内靖子は、『ミス・サイゴン』の観客論の必要性に触れ、『M・バタフライ』がオリエンタリズムとジェンダーの二項対立の枠組みを温存するものであることを確認した上で、ポピュラーカルチャーにおける抵抗的な読みについて考えていきたいと述べた。姜ガラムは、国民国家が過去についての責任をとることと、自分自身の個人としての戦いが一緒に論議されなければならないと述べ、互いの運動について相互評価をすることが運動の持続の為に必要だと加えた。江澤美月は、共感的懐古主義が過去の、あるいは他国の文化に対する深い畏敬の念であることを確認し、また、上田敏がBaudelaireを訳すことで退廃を表現しようとしたものの、その表現の仕方に問題があったのではないかと述べた。最後に司会が「お前は誰だ」という問いが今も続いていること、そこに働く力関係について考えていかなければならないことを確認して、セッションは終了した。

セッション2 女性文化の変容

記録:内堀奈保子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員) 

【発表者・タイトル】
菅聡子(お茶の水女子大学)「国家と女学生―東京女子高等師範学校を事例として―」
金英善キム・ヨンソン(梨花大学)「植民地朝鮮の近代家父長制分析のためのノート―マクロ構造主義方法論の探索を中心に―」
天野知香(お茶の水女子大学)「女たちのフェアリー・テール―現代美術における人形・少女・老婆―」
車玟姃チャ・ミンジョン(梨花女子大学大学院修士課程)「「同性愛」の時代―1920年代から1930年代における女性「同性愛」言説を中心に―」
【コメンテーター】
小嶋菜温子(立教大学)
張必和チャン・ピルファ(梨花女子大学)
【司 会】越智博美(一橋大学)
【備 考】使用言語は日本語・韓国語。参加者 169名。

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【概 要】
  セッション2は、上記4名の発表者と2名のコメンテーターから、おもに女性の文化表象の変容、あるいはそれに対する受容言説の変容にかんする発表がなされた。初めに菅聡子は、明治日本における女性の国民化へのプロセスがどのように推し進められたのかについて、教育に焦点をあて、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)と国家との連関から明らかにした。菅は分析にさいして、明治天皇皇后美子(昭憲皇太后)、教育勅語、日清戦争の三点と東京女子高等師範学校との影響関係を参照軸に考察した。同校は、美子皇后を具体的モデルとして「教育勅語」を信奉し、天皇制家族国家主義を担う女性教育者を、日本および朝鮮へ赴任させていた一方で、「教育勅語」に基づく良妻賢母主義から大きく逸脱するような優れた人材を輩出してもきた。同校の卒業生たちが、女性教師としてどのようなジレンマを抱え、どのような教育を行っていたのかを問い直し、女性にとっての<学問>の真の意義を明らかにする必要があると結論付けた。
  金英善キム・ヨンソンは、朝鮮における女性文化を分析するさいの新たな理論的枠組みを提示した。金はまず、現在の韓国学会に根強くのこる「民族」を前提にした歴史叙述を批判的に省察し、新しく台頭した脱民族主義的歴史叙述をジェンダー政治学と連関させて論じる。植民地女性は植民地時代の民族主義だけでなく家父長制構造によっても二重に不可視化されていた。金は、彼女たちの歴史化にさいし、植民主義、民族主義、近代性、地理的ヘゲモニーに加えてジェンダーの視点を接合した「多分岐的分析方法論(conjunctural analysis)」を提示し、多層的で変化に富んだ植民地の時空間での、新たな女性文化の分析方法を紹介した。
  続いて天野知香が、20世紀現代美術における人形や少女の物語の変遷と受容の変容をとりあげ、女性アーティストの手によるいわゆる女性文化を再考した。創造性クリエイティヴィティが男性性と結び付けられてきた西洋美術の伝統的な枠組みにおいて、男性作家による人形や少女の物語が主流の美術文化として受容されてきた。しかし一方で、女性作家によるそれらの作品は手芸や育児といった女性性の延長として主流芸術からは区別され、周縁化されてきた。天野は、1920年代以降の女性作家の人形や少女の物語を再考察し、彼女たちが実際にはヘテロセクシュアル制度におけるジェンダーやセクシュアリティ構造や身体観そのものを痛烈に批判、撹乱するものであるとして新たな美術史観を提示する。とくにフェティッシュ化され、消費されてきた少女の身体を、老婆と一体化させて撹乱的に表象した、やなぎみわの作品分析は、天野の発表を明確に論証するものであった。
  最後に、車玟姃チャ・ミンジョンにより、女性文化としてまだ体系化すら十分にされていない、1920年代から30年代にかけての韓国の「同性愛」言説が報告された。文化的関心の盛り上がりを見せた1920年代の韓国は、同時に新たな「恋愛」の作法、つまり「プラトニック」な過程が重要視され、「肉体的な熱情」は後方へと霧散されていた。この傾向は女同士の愛に関する言説にもあてはめられ、彼女たちが「欲望する主体」であり、撹乱的な存在であったことを脱色してしまっていた。車は、当時の『東亜日報』や『新女性』といった新聞や雑誌に表象された同性愛言説を渉猟してきた一端を紹介しながら、女性同性愛の文化の新たな受容方法を模索する試みを提示した。
 次に、二人のコメンテーターから以下のようなコメントが述べられた。初めに小嶋菜温子から、上記セッション全体を通しての包括的なコメントが寄せられた。小嶋は、菅聡子、天野知香、車玟姃チャ・ミンジョンの発表が、それぞれ国家・共同体における女性の身体というメタレベルを論じたもの、人形美術による表象という中間レベル、「同性愛」言説に表象された生身の身体という個人レベルといった、3つのレベルからの発表であり、さらに、金英善キム・ヨンソンからは理論的アプローチが提示され、非常にバラエティに富みながらもバランスの取れたセッションであったと評価した。その上で各発表に対して次のように述べた。金英善キム・ヨンソンの発表は、支配・被支配の構造を語る上での超国家的モデルを提示するもので、歴史化する上で従来看過されていた部分を充填する理論であった。車玟姃チャ・ミンジョンによる脱性化された「同性愛」への反証は、主流の文化言説の中に歪曲して体系化されてしまうことの危険性に加え、その体系から漏れ出るような自己の余剰をどのように引き受ければよいかという問題を示すものあった。さらに菅聡子が国家という身体への「女性性」の利用を明らかにしたことを受けて、共同体にからめとられうるセンチメンタルな情緒というものを、我々がどのように位置づけていけばよいのか問題提起した。
  張必和チャン・ピルファは、「女性文化」を「家父長制というコンテクストにおける女性文化」ではなかったかという問題意識を述べた上で、以下のように各発表者に質問した。菅聡子の発表は、皇后美子をモデルにした良妻賢母を奨励した官立学校が、逆説的に国家の理想的な女性像から逸脱するような人材を輩出したという非常に興味深い論考であった。師範学校を卒業した女の中における差異について詳しい説明がほしい。金英善キム・ヨンソンの理論は非常に斬新かつ大きな枠組みを提示するものであったが、民族主義を女性主義のアンチテーゼとして提示していた。しかし民族主義を論じるさいに常に女性は排除され、不可視化されていたのか。天野知香の発表は、女性的と一般に言われている人形美術やフェアリー・テイルが、女性芸術家が主体的に創造する場として有効なジャンルであったことを明示するものであった。しかし女性作家が女性性を引き受けることが果たして幸せなフェアリー・テイルとなりうるのか。車玟姃チャ・ミンジョンに対しては、「同性愛」を軽視する傾向はどのように見受けられるのか質問があった。
  二人のコメントをうけ、各発表者から以下のような応答があった。菅聡子は、過去の女性教育へのバッシングが示すように、女性教育には国家への服従と同時に常にそこからの自由と逸脱を女性に与えるものであった。また、教育における女の分断という問題は残るものの、師範学校に限ってみれば、全寮制と給費制であったために、経済格差と階級による差異を越えることを可能にしていたと応答した。金英善キム・ヨンソンからは、1920、30年代においては、民族主義者と女性主義者は共同して考察されていたが、以後セクシュアリティ問題に関して男性側からの激しい批判があったことから、両者の認識の枠組みは大きく外れるものとなったと説明があった。また、連帯の可能性は残しておくべきだとはしつつも、男性の声に女の声が飲み込まれてしまう点についての危険性を認識していなければならないとも述べた。天野知香は、人形というジャンル自体が家父長制のもとでバイアスのかかった形で配置されていることから本質主義的傾向に陥りがちであることを認めながらも、見る側が規範から漏れこぼれた部分をいかに捉えなおしうるかが重要であると主張した。車玟姃チャ・ミンジョンは1920、30年代の女性間の同性愛とは、そもそも(異性)愛の返す鏡として表象されていたという点で、常に周縁化され、下位に位置づけられていたと述べた。その後、フロアーからもコメントが多くよせられ、活発な討論が行われた。このセッションそのものがこれからの女性文化のさらなる発展を予感させるものであった。

セッション3‘Trans−’の可能性

報告者:丹羽敦子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員) 

【発表者・タイトル】
金賢美キムヒョンミ(延世大学)
 「韓国男性性を『消費』する―韓流と『親密性』の経済学―」
中村美亜(東京藝術大学)
 「宝塚『男役が演じる女役』をめぐる認識論のポリティクス―トランスからジェンダー・クリエイティブへ―」
ホンジョンウン(梨花女子大学大学院 修士課程)
 「在日朝鮮人一世の女性を『翻訳』する―ドキュメンタリーにあらわれる『選択的忘却』を中心に―」
武内佳代(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)
 「『少女』の物語から『私』の物語へ―金井美恵子『兎』にみるクィアとしての表象/表象としてのクィア―」
【コメンテーター】
金英玉キムヨンオク(梨花女子大学)
大橋洋一(東京大学)
【司 会】戸谷陽子(お茶の水女子大学)
【備 考】使用言語は日本語・韓国語。参加者 169名。

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【概 要】
  本セッションのタイトル「‘Trans-’の可能性」の‘Trans-’とは、「渡る」という意味を持ち、したがって文化とジェンダーに関わるいくつもの境界を巡って行われる交差と、そこに生じる何らかの(不)可能性が、本セッションのテーマである。
  まず金賢美は、2003年に日本で起こった「冬ソナシンドローム」に端を発する韓流ブームに焦点を当て、日本の中高年女性が韓国男性スターに抱く感情の商品化を「親密性の経済学」と名づけて次のように論じた。韓国男性のイメージは、日本の高度な文化産業と巧みに結びついて消費され、感性と情緒の領域が急激に商業化された。その結果、消費主体となった日本の中高年女性に韓国男性に対する接近可能な異性愛的親密性を見い出させた。このことは、資本主義構造の中でのジェンダーの不安定化を生み出す可能性を持っている。しかし資本によってその存在が規定される韓国の男性スターは、情緒的関係を可能とする「イメージ」を売る「商品」であり、それは多様なジェンダー関係の想像力の枯渇を象徴する現象でもある。
  続いて中村美亜が、「宝塚」において男役が女役を演じる際に生じる既存のジェンダー枠組の不安定化を検証し、ジェンダー化のプロセスの再考を通してその枠組みの変革の可能性を探った。男役は生得の性を離脱するゆえの解放感を与えるが、現実の性の境界線の無意味化をもたらすものではない。しかし男役が演じる女役は、生物学的差異の視点から違和感を生じさせ、周縁化されることによってのみ認識可能となる。まさにこの点に、性の二分化を前提とする「トランス」から、ジェンダー化に自ら関与する「ジェンダー・クリエイティブ」への転換の可能性があり、言語化不可能なものを把握可能なものにするという、ジェンダー・ポリティクスの可能性を見ることができると主張した。
  洪ジョンウンは、日本で製作された2つのドキュメンタリー『海女のリャンさん』(サクラ映画社、2004)と『HARUKO』(フジテレビ、2004)に描かれる在日朝鮮人一世の女たちを取り上げて、植民地主義、家父長制、民族言説の中で彼女たちの生が意図的に忘却させられたことを明らかにし、その生を捉え直すための「翻訳」の必要性を強調した。「在日」を排除する日本内外の差別構造の内部では、植民地主義と家父長制が共謀して、女とくに「母」の犠牲的な役割が強調され、「普遍的な母」としての生のみが言説化される。そのため彼女たちの「母」以外の「歴史」は集団の記憶から削除されてしまうが、支配言語によって不当に言説化/隠蔽されるこうした彼女たちの生を可視化し歴史化できるのは、彼女たちの「自己言語」の「翻訳」を通してのみであると指摘した。
  最後に武内佳代は、金井美恵子の小説『兎』(1972)に描かれる「少女」と語り手である「私」を横断することにより、この作品のクィア批評を試みた。まず「少女」を巡る父娘の近親姦に見られる性別二分法の内面化と、その過剰な表象ゆえに生じる攪乱の可能性を提示した。さらにこの「少女」の物語を語る「無性」の「私」の沈黙による結末と、「私」が語り手としての外在性を混乱させてその主体性を決定不可能なものにしてしまっている点に注目して、この結末が性別二分法規範に裏打ちされた言語体系への抵抗にほかならないこと、そして読者のあらゆる性の主体の代入を許容するゆえに、「無性」の「私」がクィアなものの表象を可能にしているとの解釈を示した。
  以上4名の報告を受けて金英玉が、「トランス」とは移動の流れが変化の曲線として記されるものであると定義したうえで、次のようにコメントした。越境によって生じる恐れと魅力という両義性が持ちうる、現実を変える可能性は、翻訳に通じるものである。在日一世である母親の生を、母親イデオロギーに捉えられずに表現できる「翻訳」の言語とはそのような可能性を持ったものでなければならず、それは、「言いよどみ」や「しゃっくり」などといった類のものである。そうした身体的な「言語」は情動と結びつくために、韓流や宝塚で見られるような、具体的な変化の様相を呈する可能性を持つからである。このことはまた、こうした可能性をファンタジーが有していることを意味し、その点で、ファンタジーはクリエイティブに働きうるものである。また『兎』については、最後に沈黙している「私」という主体が、次にどのような言語を発して変形していく可能性を持っているかが問題となってくるだろう。
  続いて大橋洋一が次のようにコメントした。ボーダーやトランスの問題から見たペ・ヨンジュン現象の解釈は、例外的なものから可能性が生まれるという宝塚についての解釈と共通するものであり、どちらも、ボーダーを越えると何かを失うが何かがくっついてくるという現象として捉えることができる。他方、ボーダーを越えることによってさらに多くのものが喪失され歪められていくのが、在日朝鮮人の「母親」の物語/歴史である。在日朝鮮人の母親の苦難に感銘を受けたという中曽根元首相のコメントは、その苦難に日本人男性が加担していることに無頓着であるがゆえに、母親イデオロギーの怖さを証明したものと言え、「翻訳」には失うものと得るものとのバランスが重要であることを確認させる。また、『兎』に見られる「屠殺」のイメージは、動物を殺生することへの喜びを示すものであり、それは「部落民」や「朝鮮人」が押し付けられている負のイメージと関係して、日本社会の文化的暗黒面を表象したものと解釈できる。
  以上のコメントに対し、報告者は次のように答えた。中村は、私たちが感じているファンタジーをそのまま受容しそれを「翻訳」していくことで、なんらかの可能性が広がっていくだろうとの見解を示し、金は、韓流に見られる女性と消費の問題は、日韓の文化的政治的関係にとって肯定的側面と否定的側面があることを再度指摘した。洪は、「翻訳」とは想像力の問題につきることを強調し、武内は、性別二分法的なアイデンティティ・ポリティクスを解体する読み方を一つの翻訳として提示したことを再確認し、また「屠殺」についての再分析を試みたいとの意向を示した。
  聴衆から質疑を受ける時間がなかった点は残念だったものの、「トランス」を巡って多様な方向からの可能性が提示された本セッションは、コメンテーターの大橋の言を借りれば、文化産業や歴史に関するものから日本と朝鮮半島の関係における負の部分にまでテーマが及び、ボーダーを越えることの意味と可能性さらには負の側面についても考えさせられるものであった。

セッション4 戦争言説とジェンダー

報告者:松尾江津子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員) 

【発表者・タイトル】
竹村和子(お茶の水女子大学)
 「スクリーンからの手紙はどこに届くのか――日韓米の戦争映画とジェンダー言説」
金素榮キムソヨン(韓国芸術総合学校)
 「戦争と女性――『最後の証人』」
李南錦イーナングム(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)
 「漱石作品における植民地主義と女性嫌悪の問題――植民地への移動者と『芸妓』の表象を中心に」
李東トイドンオク(梨花女子大学大学院 博士課程)
 「戦争と死」
【コメンテーター】
小森陽一(東京大学)
許羅今ホラグム(梨花女子大学アジア女性学センター長)
【司 会】高橋裕子(津田塾大学)
【備 考】使用言語は日本語・韓国語。参加者 116名。

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【概 要】
  シンポジウム2日目には、「戦争言説とジェンダー」と題して、高橋裕子司会のもと、4名の発表者と2名のコメンテーターを迎え、第4セッションが行われた。
  まず、第一発表者、竹村和子は「スクリーンからの手紙はどこに届くのか―日韓米の戦争映画とジェンダー言説」と題し、近年矢継ぎ早に製作された日韓米の戦争映画を、「平時」の制度的・心的構造との関係で、とくにセクシュアリティにまつわり戦争と欲望がどのように配備されているかを軸に、分析した。一見して反戦を標榜しているかに見える映画に刻印されているホモソーシャリティが、「死に先んじる喪」として戦死の既視性を与えており、ホモエロティシズムを流用しつつ否定するこの言説装置の「証言」が、どのように(不)可能な表象になりうるかを考察した。
  次に、金素榮キムソヨンが「戦争と女性―『最後の証人』」と題し、小説『最後の証人』(金ソンゾン、1974)と、その翻案の同名の映画(1979)の分析を通じて、朝鮮戦争という同族間戦争がいかに女を範疇化カテゴライズしたかを考察した。70年代初期に時代を設定したこの作品は、20年の歳月を遡り、朝鮮戦争当時の共匪パルチザンの部隊における隊長の集団殺人と、遺された彼の娘に対する仲間内での集団強姦―彼女は「慰安婦」と呼ばれ、継続的にその役割を強いられた―を扱っており、キムはここにフロイトの『トーテムとタブー』における「父殺し」と「近親姦」の連鎖とその禁忌の崩壊を見、この「同族相残」と呼ばれる男性同族間の戦いの中で、女が範疇カテゴリー上同族とみなされず性暴力の対象となるさまを論じた。
  「漱石作品における植民地主義コロニアリズム女性嫌悪ミソジニーの問題―植民地への移動者と「芸妓」の表象を中心に」を発表した李南錦は、帝国主義に批判的な立場で作品を書き、強い自我をもった「新しい女」を造型したとされる夏目漱石が、実は帝国権力の内側に属した男性知識人の域を出ず、被支配国への関心や女に対する理解を欠いているとして、彼の内に潜む無意識の植民地主義と女性嫌悪を暴いた。さらに、女を「貴婦人」と「芸者」として二分しつつも結局は同一視し排除する作品内の男性登場人物の視線に、植民地を「妻」や「芸妓」として表象した明治帝国の植民地主義の戦略をだぶらせ、漱石の女性表象に、植民地主義と女性嫌悪の共犯関係が見られることを指摘した。
  「戦争と死」を発表した李ドンオクは、戦争とそれによる死を女の観点から見直す試みを展開した。男性中心的政治構造において、戦争に関する意思決定から排除された女が、戦時に与えられる性役割は何か、また戦時の性暴力が女にいかなる意味を持ち、いかに女の一生に影響を及ぼすかという問題を、戦争に伴う死の様々な側面とともに考察した。戦争を国益と考える政府に対して、戦争とそれによる死を、個人の人生における喪失と破壊の頂点として捉えることで、戦争の破壊性と無益さを論じた。
  これらの発表に対して、小森陽一は五つの問題提起をする形でコメントを行った。第一に、「文化表象の政治学」と銘打つ本会合において、文化表象を生み出した作者(主体)、生み出された表象(作品)、その表象が社会的に流通する中で果たした政治的・歴史的な役割(受容)という三者を、明確に分離して分析する必要があると指摘した。
  第二に、本セッションの扱う「戦争」表象の場合、第二次大戦以降の「戦争」の歴史的意味と、その戦争の「表象」との関係が、批判的に取り扱われる必要を述べた。
  第三に、朝鮮戦争の表象を『トーテムとタブー』の逆転現象と捉えた金に対して、むしろフロイトが意味づけた人間社会の秩序のあり方自体が、第二次大戦後崩壊し、その崩壊した枠組みが、大衆の記憶を動員するために、逆転された「狂気」の表象として、作り手にも無自覚なまま現れているという捉え方を提案した。そしてこういった議論に暗に含まれる前提―第二次大戦後の社会を「正気」とみなし、我々の言説が「正気」の側にあるという思い込み―には、常に自己批判的視点をもつ必要を示唆した。
  第三に、竹村論の「不可能」と「可能」の只中にあり続ける「証言」を真摯に受けとめ、賛同する小森は、さらなる問題提起として、法的庇護下にある我々が法を宙吊りにされた戦争暴力の只中の人間の感受性への想像力を持ちうるかと我々のあり方を問うた。
  最後に、小森自身の専門でもある漱石の表象分析について、漱石の小説表象の中で、小森が漱石が同時代の植民地支配や帝国主義のあり方を見抜いていると考える箇所を、李南錦は漱石本人を批判する文脈に転換して用いていることを指摘し、敬意を表するとともに、類型化されたイデオロギー的言説の再生産に加担する危惧を表明した。
  続いて行われた許羅今ホラグムのコメントでは、戦争の主体は国家であり、戦争ができる国家になるための過程がいわば近代の歴史であったことを確認した。このような国家を形成したのは軍人である男性主体であり、戦争も死も男に属するものとして語られるのに対し、保護を受け銃後にある二次市民としての女は、家庭・母・生命等と結びつけられるとして、戦争言説における二分法的な対称構図の存在を明らかにした。上記の4発表も還元すればこの二分法的構図の中で議論されていることから、この構図から脱して議論することは不可能なのかという問いを発した。
  両者のコメントに対し、まず竹村は、小森の第一の指摘に同意し、また、の指摘した二分法の構図からもはや脱すべきときであるにもかかわらず、今この古典的な構図を利用した映画が大量生産されている事実への驚きが本発表に至らしめたと述べた。また、小森の第三の指摘を受けて、フロイトの近代自我形成についての理論を、暴力・性別・近代国家との関係の中で、より現代に即した形の主体形成として改めて理論化し直す必要があると述べた。さらに、古くから我々が共有してきた馴染みのよい「物語」を使いながら、今新たに情動の政治が進められている事態に警鐘を鳴らした。
  金は、フロイト理論は、同族の集団の中で、同族が殺し合い、女が部族の内部にありながら排除される状況の一種のアナロジーとして用いたとして、小森に応答した。
  李南錦は、『虞美人草』の藤尾のような女を帝国時代の大衆メディア(新聞)に描けた漱石が、個人的文書では女性嫌悪を示していることが、本発表の契機だと説明した。
  李ドンオクは、戦争を家族や国への愛ゆえに行うことに批判を示す必要と、個人の悲しみや自然の破壊の観点からも戦争を考え直す必要を繰り返した。
  これらの応答に対して、再度小森が、漱石に関して、作家と作品の分離の必要を説き、小森自身は、李とは別の観点から、同時代の言説より明らかに女性嫌悪や植民地主義を提示している漱石作品を、日本の戦争への歩みを阻む戦略として用いていると述べた。加えて、竹村の情動の政治の発言について、極めて馴染んだ物語を用い、莫大な資本投下とともに、物語化されたイメージの操作によって政治学が行われる現在、事態を見抜き即座に異を唱えることのできる我々表象知識人の役割が極めて重要になることを指摘し、一同を鼓舞した。
  最後に、竹村が二分法の構図の解体として、生殖技術分野でも理論化の枠組みが変容すべき時がきていると補足した後、会場の質問に李ドンオクが短く応答し、現在火急の課題である戦争言説とジェンダーについての本セッションは幕を閉じた。

セッション5
ラウンドテーブル 

報告者:山口菜穂子(お茶の水女子大学大学院博士後期課程、COE研究員)

【司 会】竹村和子(お茶の水女子大学)
【コメンテーター】金恩實キムウンシル(梨花女子大学)
【備 考】使用言語は日本語・韓国語。参加者 116名。

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【概 要】
  ラウンドテーブルは、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター教授舘かおるのコメントから開始された。舘はこのような文化表象の研究領域においても、科学・テクノロジーの観点、とくに、戦争とテクノロジーの問題を取り扱うよう提案した。続いて、コメンテーターの金恩實が、日韓女性シンポジウムの企画立案者・参加者の視点から、今回のシンポジウムおよびそれに先立つ歴史ツアーの意義、そして今後の展望について包括的にコメントした。金はまず、この日韓の女性研究者による共同プロジェクトの企画開催・参加の目的について説明した。金によれば、日韓の研究者たちは、表象の問題――社会的な利害・再現の問題――を理解する上で、それぞれの立場性から脱しがたい現状にある。とりわけ、歴史を理解する際に、両者がそれぞれの立場性を超えて相互に理解する空間を持っているかは疑わしい。この疑問が、会議に先立って歴史ツアーを含めるという、このプロジェクトを開始した契機である。近年、日韓両国の相互理解を求める欲求の高まりを背景として、このようなシンポジウムが頻繁に開催されていることは確かだが、交流の継続は困難であり、結局袋小路に突き当たることが多い。しかし、互いが同時に同じ近代の再現物を見、声を聞くこと、そしてそれらがいかなる歴史的・政治的・文化的な力によって構築されたのか共有することによって、新たな道や声を模索しながら交流することは可能だと思われる。これがこのプロジェクトの目的である。
  さらに金は、日韓の研究者が互いの立場性を超えて、従来の歴史表象理解に対する批判的な視座を獲得する上で、互いに周辺的なひとびとの話を聞き、新たな言葉・表象を作り出すことが重要であると指摘した。さらにその際、われわれが近代の産物としての認識の枠内にいることを十全に自覚しつつ、それを解体する必要があり、国民国家観に基づく表象体系を、インター/トランスアジアの空間で疎通可能な表象として作り変える努力が必要だと述べた。そして、シンポジウムでのそれぞれの発表は、これらの点を踏まえた上で女性表象を再解釈し、新たな空間を探す努力だったと見なされるだろうと、このプロジェクトを総括してコメントを終えた。
  続いて、フロアからの質疑応答へ移った。質問および応答は多岐に亘ったが、論点は以下のようにまとめられる。まず、物語化や物語の解釈、解釈する共同体に抵抗するために、いかなる方法が考えられるかをめぐって、表象分析の学術的な蓄積や批判をよりいっそう流通させることや、対案的な表象を作り出すことが提案された。また、これに関連して、本来複雑なものが、メディアによって非常に単純化され表象されている現状や、マイノリティによるマジョリティへの抵抗の困難が述べられた。これに対し、知識人はただ気づくだけでなくアクティビストである必要があるだろう、という指摘や、抵抗するという行為は困難ではあるものの、抵抗することで既存のシステムを揺るがすものが産まれると同時に、これが新たな政治的秩序が編成される開始地点であることを見極め、議論する必要がある、との応答がなされた。最後に司会の竹村和子は、ジェンダー編成という歴史的に時間をかけて複雑に生成されてきたシステムの変革には或る一定の時間が必要であることを踏まえ、むしろ大切なことは、けっして絶望せず持続させることであり、変革に向けて進んでいるという確信を持つことだと述べ、また「言いよどむ」地点で立ち止まって思考することが必要との提言でラウンドテーブルは終了した。今後、国境/領域を超えた様々な研究者を巻き込みつつ、本プロジェクトが継続・発展していく希望を感じさせる充実したシンポジウムであった。



追悼・謝辞

 本年の日韓女性会議の1ヵ月ほど後の10月3日に、第1セッションでコメンテーターをして下さった若桑みどりさんの突然のご逝去の悲報にふれ、驚きと哀しみにたえません。この会議には第1回目から(そのおりには研究発表者として)ご参加下さり、また本21世紀COEプログラムの種々の試みをも支援して下さり、そのつど有意義なご意見のみならず、ジェンダー研究推進への熱い思いを伝えてくださいました。
 若桑みどりさんに、あらためてわたしたちの感謝の気持ちを捧げるとともに、その志を継ぐべく、これからも一層努力して参ります。

お茶の水女子大学21世紀COE「ジェンダー研究のフロンティア」
プロジェクトD「理論構築と文化表象」および日韓女性会議の担当教員・学生一同
(プロジェクトD・日韓女性会議代表 竹村 和子)


 

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